イタリア・ベネチア、歴史遺産を守るためのオーバーツーリズム対策とは

「美しき水都」と称され、世界中の旅行者を魅了するイタリアのベネチア。しかし、華麗なイメージの裏側には、観光客の急増により引き起こされる深刻な問題が隠れています。それが「オーバーツーリズム」です。
この言葉は、観光地が過剰な観光客を受け入れることで、地域の住民や環境、文化的資源に悪影響を及ぼす現象を指します。特にベネチアでは、住民の生活や環境、貴重な歴史的遺産が危機にさらされています。
本記事では、オーバーツーリズムの実態やその原因、影響、さらに問題解決に向けた取り組みと私たちにできることを考察します。
オーバーツーリズムとは
オーバーツーリズムとは、観光地が過剰な観光客を受け入れることによって、地域住民の生活の質や旅行者の体験が悪化する現象を指します。[1]
具体的には、観光が住民の暮らしや環境、文化的資源に過度な負担をかけることで、地域社会全体が持続可能な形で観光を受け入れられなくなる状況を指します。
観光が地域の魅力を損なわないよう管理することが、オーバーツーリズム対策の重要なテーマです。
イタリア・ベネチアのオーバーツーリズムの実態
ベネチアはその独特な地形、歴史的建造物、美しい運河網で知られ、「水の都」として世界中の旅行者を惹きつけています。2023年には約560万人が訪れ、前年より21.92%増加しました。[2]
観光産業はベネチアにとって重要な収入源となっていますが、その反面、観光客の膨大な数がもたらす影響は深刻です。
特に観光シーズン中、中心部のサン・マルコ広場やリアルト橋周辺は観光客であふれ、地元住民の生活環境や市の持続可能性に深刻な問題を引き起こしています。
以下では、具体的な問題を3つの観点から詳しく見ていきます。
住民生活への影響
ベネチアは元々、地元住民が生活する都市でしたが、観光客の急増によりその均衡が崩れつつあります。
生活空間の圧迫
観光客向けの宿泊施設や飲食店が急増したことで、地元住民向けの商店が減少し、日用品の購入や日常生活が困難になっています。
住民数の減少
2007年には26万8,993人だった住民数が、2024年には25万1,801人まで減少しました。[3]これは約6.39%の減少に相当します。その要因として、観光産業を優先した土地利用や家賃の高騰が挙げられます。
騒音とゴミ問題
大型ツアー団体や深夜まで続く観光活動により、騒音被害や運河へのゴミの投棄が日常化しています。観光客が集中するエリアでは特に顕著です。
環境への影響
観光客の増加とそれに伴う活動は、ベネチアの繊細な環境に直接的な負荷を与えています。
運河の汚染
クルーズ船の運航による排水や観光ボートの燃料が運河を汚染し、生態系のバランスを崩しています。
建物の老朽化
運河沿いの歴史的建造物は、観光客の振動や運河を行き交う船の波による浸食で劣化が進んでいます。
生態系の破壊
観光活動が増えることで、ベネチア周辺のラグーンの自然環境が損なわれ、生物多様性が失われています。
文化・歴史的遺産の毀損
観光客の増加は、ベネチアの文化的・歴史的遺産にも影響を及ぼしています。
歴史的建造物への負荷
サン・マルコ大聖堂やドゥカーレ宮殿などの観光名所は、訪問者の多さから摩耗や劣化が進んでいます。修繕が追いつかないケースも少なくありません。
文化の希薄化
観光客向けの大量生産された土産物やチェーン店舗の氾濫により、地元の伝統工芸や独自の文化が脅かされています。
観光行動の問題:
観光客が不適切な行動(例:大声での会話、歴史的建造物への落書き)をとるケースが増え、文化財への直接的な損傷が見られることもあります。
ベネチアのオーバーツーリズムの原因
ベネチアのオーバーツーリズムを引き起こしている要因は何でしょうか?大きく3つの視点から考察します。
グローバルな観光ブーム
観光客の急増の背景には、世界的な観光ブームがあります。主な要因には次のようなものがあります。
LCC(格安航空会社)の普及
格安航空会社の増加により、世界中からベネチアへのアクセスが容易になりました。手頃な価格でヨーロッパ各地を訪れられるため、旅行が身近なものとなり、特に短期滞在型の観光客が増えています。
SNSによる情報拡散
InstagramやFacebookなどのSNSで、サン・マルコ広場やゴンドラに乗る体験が「映える」コンテンツとしてシェアされ、観光需要をさらに煽っています。これにより、一部の観光地が過度に集中する傾向が強まっています。
受け入れ体制の不備
ベネチアは観光地としての人気に対して、受け入れ体制が追いついていないこともオーバーツーリズムを引き起こす要因の一つです。
キャパシティを超えた観光客の流入
一日に数万人が訪れる日もあるベネチアでは、観光地や交通インフラが観光客をさばききれず、混雑やストレスが増えています。特に、クルーズ船で訪れる短期滞在の観光客が増えることで、街の一部エリアが過密状態になりやすくなっています。
インフラ整備の遅れ
公共交通やゴミ処理、トイレなどの基本的なインフラが観光客の需要に応えきれておらず、地元住民や観光客双方に不便をもたらしています。また、観光客用の施設が増える一方で、地元住民向けのサービスは縮小傾向にあります。
地域経済の偏り
ベネチアが観光業に過度に依存していることも、オーバーツーリズムの一因です。
観光業への依存
ベネチアの経済は観光業に大きく依存しており、他の産業は衰退傾向にあります。その結果、地元住民の多くが観光業に関わる仕事を選ばざるを得ず、多様な産業が育たない状況が続いています。
観光収入の偏り
観光業の収益は一部の企業や運営団体に集中し、地域全体に十分な利益が還元されていないという問題があります。観光業で高騰した家賃や生活費の負担が住民の不満を生み出し、住民の流出を加速させています。
ベネチアのオーバーツーリズム問題への取り組み
増え続ける観光客による「オーバーツーリズム」に対処するため、ベネチア市はAI(人工知能)の活用を含む革新的な取り組みを進めています。[4]
観光管理へのAIの活用
AIは、オーバーツーリズム問題を解決するための強力なツールとして注目されています。その一例として、2024年から導入された入市料制度があります。このシステムは、観光客の流入を管理するための第一歩と位置付けられています。
- データ分析とリアルタイム監視
AIを活用し、観光客の動向をリアルタイムで監視する取り組みが進められています。AIは、特定のエリアでの混雑を検出し、必要に応じてアクセスを制限することが可能です。
また、蓄積されたデータを基に、観光客が集中する時間帯や季節を予測し、混雑を事前に回避するためのプランを立案することもできます。これにより、観光の質を向上させると同時に、文化財やインフラの保全にも寄与しています。
- アプリ「Thanks」の導入
地元スタートアップによって開発されたアプリ「Thanks」は、AIを活用して観光客にオススメのルートや混雑を避けるための情報を提供します。主要観光地を避けた隠れた名所を提案することで、観光客の分散を図り、観光体験を向上させています。
このような技術は、観光客と地元住民の両方に利益をもたらす持続可能な観光の好例です。
- 動的料金の導入
混雑が予想される時期や時間帯には料金を引き上げ、逆に閑散期には割引料金を適用する仕組みが検討されています。
この「動的料金制度」は、航空業界で既に採用されているモデルを参考にしており、観光客の流れを平準化する効果が期待されています。
環境保全とインフラ管理へのAIの応用
AIは観光管理だけでなく、ベネチアのインフラや環境の保全にも重要な役割を果たしています。
- センサーとモニタリング技術
街中に設置されたセンサーやカメラが、歩行者の流れや空気の質、騒音レベル、歴史的建造物の状態をリアルタイムで監視します。例えば、特定の橋に人が集中しすぎた場合、AIがアクセスを一時的に制限したり、別のルートを案内したりすることが可能です。
- 資源の効率的な利用
AIはエネルギーや水資源の管理にも活用されています。観光客が増加する時期でも、無駄のない資源運用が可能となり、環境への影響を最小限に抑えられます。
- 公共交通機関の最適化
ベネチア名物である水上バス「ヴァポレット」の運行ルートをAIで最適化することで、交通の混雑を緩和する取り組みも進められています。
観光教育とAIの役割
オーバーツーリズムを解決するには、観光客自身の行動も重要です。AIを活用したキャンペーンやアプリは、観光客に環境保護や文化財の重要性を理解させ、持続可能な行動を促す手助けをしています。
例えば、観光客向けのアプリは、滞在中の注意点やマナーを案内し、地元コミュニティに配慮した行動を促進します。また、複数言語での対応や個人に合わせた情報提供により、観光客の満足度を高められます。
まとめ
ベネチアは世界中の観光客を魅了する「水の都」ですが、過剰な観光客の流入によるオーバーツーリズムが深刻な問題となっています。住民の生活圏の圧迫、騒音やゴミ問題、文化財の劣化、運河の汚染などが顕在化し、地域の持続可能性を脅かしています。
これに対し、市はAIを活用した観光管理を導入。リアルタイム監視、混雑緩和のための動的料金制度、観光客分散アプリ「Thanks」などが機能しつつあります。さらに、公共交通の最適化や資源管理の効率化にも取り組んでいます。
持続可能な観光の実現には、地元政府や観光業界だけでなく、訪問者自身の意識改革も不可欠です。ベネチアの美しい景観と文化を未来に残すために、私たち一人ひとりが責任ある行動を心がけることが求められています。


参考文献
[1]overtourism_Ex_Summary_low-2.pdf
[2]Annuario_del_Turismo_dati_2023.pdf